かないの塒

日々の生活のなかで、気づいたこと、感じたことなどを書いていこうと思います。

西川ゼミの体験振り返り(その2)・・・上越での学び⑤

越後『学び合い』の会での、ライブでの西川ゼミ体験を行いました。そこでの主だった質問とその回答です。前回からの続きとなります。

 教員は「その子、そのことを変えることができない」だから、「個人」よりも「集団」に意識を向けたほうがいい、ということ。また、自分の中で、「絶えず、アップデートし続けていくことが、この業界でで生き残るためには、豊かな人生にするには、必要なことなんだ・・・」と、確証しました。しかし、どんな質問にも応える西川先生の姿、圧巻でした。そして。学び多き1日でした。もう一週間たってますが・・・。

 

 

(8)『学び合い』は、情緒障害は難しいと言われてましたが・・・

→『学び合い』は、アスペルガータイプの子は大変だなと思っている。学び合いは、「関わる関わらない」の線引きを生徒に任せている。集団をリードする子どもにある。だから、アスペルガータイプの子は、空気もよめず勝手に近づいてくる子がいる。これは、さすがにリードする子が「えっ」と思う。これは。どうやって解決すればいいかと言うと、リードする子が増えて、そしてそれを支持する中間層が増えると、つねに人が変わるので、1人の負担感が少なくなる。

 「アスペルガータイプの子をどうしようか」と考えるのを忘れて、その子をわすれて有機的な集団をつくることに専念すればいい、ということ。それは、目に見えているアスペルガータイプの子だけではなく、自分には見えない様々な集団の中の課題を子どもたちが勝手にに解決することになる。

 私は、西川ゼミで何が行われているか、まったくわかりません。知らないように積極的にしている。寄り添うことを求められている、現場の先生には変に思うかもしれませんが、積極的に子どものことを知りたくない。知ったって何もできないからです。そして、心が病みます。だから、私は知らないようにしている。集団をみるようにしている。そのほうが意味があると知っている。

 

(9)『学び合い』で子どもたちの爆発的に伸ばすことがはできますか

→テストの点数をあげるのは、多くの先生は発問や教材で上げると思っていますが、「本人が点数を取りたい。」と思えるかどうか。先生が勉強しなさい、と言ってやる子はとっくに変わっている。その子が勉強しよう、テストの点をあげようと、いうことを考えるのであれば、仲間から「一緒に勉強しようよ」と言う関係があれば、可能性がある。一斉指導よりもマシ。「学力向上テクニック入門」に詳しく書いてある。

 

(10) 公教育の崩壊は起こっているのか・・・

→もう、日本は大量生産の社会では生き残れない。皆さんが責任を負っているのは、現状の学校組織を守るのではなく、目の前の子どもを救う事。優先順位は、どっちが大事か。皆さんにできることは、小学校の先生は、中学校段階で一条校を捨てるという選択肢があるという事を教える。中学校の先生は、高校には非ジョブ型の偏差値の高い学校に行くよりも、偏差値はそれよりも低いけれど、ジョブ型の高校やN高等学校のような学校もあるよと、伝えて今の教育を崩壊させるようにすすめてください。

我々は、『学び合い』の実践者はそのままそれを続ける。崩壊したとしても、『学び合い』をやっているうちは生き残れます。一条校を捨てていく子どもが増えている中、一斉指導が成り立ちますか。成りたたない。でも、皆さんはそれに耐えることができる。だから、まず自分の身を守ってください。そして、周りと折り合いを付けて、『学び合い』を続けてください。私は、早く崩壊することを願って、その時点で崩壊したとき助けてあげるだけの比率の学び合い実践者を世に生みたい。そうすればおぼれている同僚を救うこともできるでしょう。ソフトランディングできるでしょう。皆さんは、今まで通りやればいいのです。

 

(11)反復練習ばかりしている子の、思考力をつけるにはどうすればいいか・・・

→思考力って何でしょう。実は教育には、みんなが知っている言葉何だけど、未定義なものがある。まずこれを考えるためには、思考力という事を定義しなければならない。定義するときは、少なくとも成績上位のクラスをリードする1割2割の子どもが、その言葉の意味が正確に捉えられるように定義すること。後は、「さあどうぞ」とやればいい。子どもたちは、反復練習を選ぶかもしれない、一人一人違ったやり方でその定義された、思考力を高めることをするかもしれない。

ただ、私は思考力を高める必要はあるのか、と思う。一般の先生方は、能力知識は、個々人にあると思っている。しかし、『学び合い』はそう考えない。だって、そう考えると絶対にそれを達成できない子どもがいるから。でも、ほんとに大事なものは、全てのことどもに誤りなく確実に伝えなければならない。となると、知識技能の単位を個々人よりも集団の中にあると思った方がいい。問題解決において、思考力がある人とつながればいいと考える。

 

(12)高校の『学び合い』はなかなか難しい・・・

→世の中で一番やりやすいのは、小学校。中学校、高校で一番やりやすいのは、小学校1年生。一人も見捨てないで…と言っても、「わかった」と言う反応。でも、上級生になればなるほど、「そんなことねぇ」と思うのが普通。だって、裏切られた過去のことがあるから。難しいけどやらないといけない。よく言われますが、『学び合い』はクラスの人間関係ができていないとできないですよね。クラスの教師が信頼されていないとできない…という事を言います。

 確かに、そのほうが楽ですが、そうでないクラスであってもやらないといけない責務がある。それを改善するには一斉指導でできますか?やってみろって・・・。信頼関係のない教師が一斉指導をやって何か改善されますか?そんだったら、信頼されていない教師と思われていても、その子たちに「一人も見捨てない」と言う軸を持って、語った方が、マシじゃないですか。人間関係ができていないで、教師の質問や板書の一斉指導で何か解決の糸口ができますか。それよりも、みんなで関わる授業を設定して、育った方がいいじゃないですか?

 「難しい、大変だ・・・」でもやるしかない。幸いなことに、小学校の『学び合い』をしている小学校の先生が、小学校では、心の美しさがわかる。高学年では賢さが見える・・・とおっしゃっています。それは、おそらく中学校、高校でもそのようなものはあるのでしょう。我々は、どこの学校で会って教師であるので。与えらえたお客さんを最高にするという責務としいぇいる。与えられたお客さんでできるか義理のことをしましょう。

 

(13)宿題・・・

 →宿題なんて、できる人間にとってもっとも簡単な課題である。でも、プリントの課題はできる子にとっては簡単。でも、「勉強ができない子ども、協調性がない子どもを含めて、クラス 全体が一丸となるにはどうしたらいいのか」、と言いうようにソウシャルスキル的に考えるのであればそれは難しい。それこそが宿題とすべき。

 本来、個別最適化した課題においては、宿題は一人一人違うべき。だからこそ、西川ゼミで何かをやれ・・・という事はない。命令はしません。一人一人がかんがえてやればいい。宮遣いでやんなきゃ聞けないのであれば、やったふりでのしておきましょう。それに、宿題を与えて、できない子がいるんだったら、放課後子どもたちが集まってやる・・・みたいなことを考えるでしょう。

 要は、やらなければならないことはやりましょう。でも、その問題を解決しようと先生が考えれば考えるほど生徒は考えなくなる。こどもに率直にいえば言い。「どうすればいいのか」と、子どもたちの方が、我々よりも個別最適化した解決策を見つけると思う。

 

(14)協働と協同の再定義・・・

→学術的には、微妙。ハッキリ散って教育的に価値があるとは思わない。協働か強調か、よりも、「どういう姿が、子どもたちにとって幸せなのか」、「その幸せを実現する状態はどういうことなのか」、を自分なりのビジョンを持つことの方が実りがある。それが一番難しい。

 なぜならば、それを持つためには、単純に教材研究すればいいというわけではなく、アンテナを高くして、社会の動き、文部科学省教育委員会が言ってるたわけたことを信じずに、実際にわかっている、未来が見える人から聞き、本を読み、自分の中でイマジネーションを持っていて、自分から積極的に「情報をとり」、「人と語り合う」。これによって、自分なりのビジョンを持つ。ビジョンがしっかり持てれば、それから派生する教育の様々な問題に対して一貫して軸が見える。軸が見えさえすれば教師は信頼される。