かないの塒

日々の生活のなかで、気づいたこと、感じたことなどを書いていこうと思います。

授業において「わかる」「理解する」ってどういうところで判断する?

〇オンラインゼミ振り返り(2)

 教育には目的があり、それを達成するために授業がある。その目的を達成することを確認するために評価がある。つまり、目標・目的と授業と評価はイコール。中学校であれば、評価はテストでやっている。だから、テストの点数がとれるか取れないかそれが目標であるということ。まずは、テストの点数がとれる。それは、子どもにとってもわかりやすい。「わかった」、「わからない」は、テストで全員80点以上、90点以上とるかとれないか、ってやればいい。

 

 学校という場で「わかった」「理解した」というのは、例えば、「1+1がわかった」というのは、「それが2であることから、ペアの公理レベルまでによる理解」という、多様性がある。どれが適切かというのはどれも可能性がある。じゃ何をもってそれが適切かどうかを決める方法は、学校での授業内容であるのであれば「テスト」であるということが一番わかりやすい方法だということ。

 ただ、「テストをとれるだけでは満足できない。」と考える時があるかもしれません。例えば、現在、本当に「数学を生活や 学習に生かそうとする子を育てたい」と私が考えていた場合は、「できたかできないか」の評価を考えなければなりません。しかし、その評価の仕方がはっきりとしていません。となると、そういう子を育てるということを全面否定はせず、少なくともこのクラス全員が、テストで図るレベルのことがクリアしていない場合、それは、数学を生活や学習に生かそうとすることを達成することはできない。そう考えるとしっくりといくかなと思いました。

 ま、聞こえがいい言葉ほど、あいまいな言葉はないですね。だから自分で定義をしていけばいい、と思いました。